無題

しーうーのあらまんちゅ

人はいつ、「大人になった」と言えるのだろう

大人は基本的に、ひとりだ。たとえ子孫を残しても、死ぬ時は独り、畳のシミになる可能性も0ではない。友人、恋人、パートナー、家族、その他、信頼できる人達がいたとしても、幼少期に親がつくってくれたような「絶対的な安全圏」は、自分自身でつくり上げるしかない。そもそも親がそれをつくってくれた経験が無くて、孤独のまま闘わなくてはならない人達だって沢山いる。

安全圏をつくるには、自他境界が必要だ。あなたはあなた、わたしはわたし、という境界。これが無いと、すべての人間関係が依存的になり、「どうして私はこんなに貴方に尽くしたのに、貴方は何もしてくれないの?」という怒りや攻撃の感情が湧く。非常に不健全な心理。

だからといって、信じられるのは自分だけとばかりに、周りの厚意を切り捨てることを繰り返して生きていくことも、自分には健全とは思えない。だいたいにおいて、この手の「自ら孤独に」なろうとしている人々は、寂しさという感情を捨てきれていない。山奥で文明社会を捨てて独りで暮らせば、煩わしい社会も人間関係も忘れて、自由のまま生きられるはずなのに、なぜか彼らはそれをしない。文明社会という「繋がり」の中で生きようとすることはやめない。私は子どもの頃は切り捨てる側で、今はどちらかといえば切り捨てられる側になった。ショックは受けるけど、仕方ないと受け入れるしかないとは思う。だって、自分自身がやってきたことが、大人になってから返ってきているようなものだから。だけど、「私」という人間を理想化して、私の思考も、私の趣味も、私の夢も、私の悩みも、私のコンプレックスも、私が抱えている病も、すべてを肯定して近づいてきた人が突然豹変して、私を嫌って離れていくことだけは、どうしてもまだつらい。これは、まだ私自身の自他境界があいまいなことの現れだと思う。

 

それで、本題に戻る。暫定的な私の「大人」の定義は、「与える愛」を学んだ人だと思う。「求める愛(エロース)」ではなく、「与える愛、無償の愛(アガペー)」。愛なんて、見返りを求めても返っては来ないのだ。そもそも「この世界には尊敬できる人はいても、完璧な人、理想通りの人はいない。人はみな、それぞれ弱さを抱えている。それでも強くなるために、支え合って生きている」という前提を理解できないと、他者をほんとうに愛することはできないと思う。才気に溢れている人、魅力的な人は、この世界に沢山、沢山いる。でも、そういう人達が自分の理想通りの人間ではなかったからといって落胆するようでは、まだまだなのだと思う。それこそ自他境界をはっきりさせるためには、他人に己の理想の投影をしてはいけないのだ。自分の理想になれるのは、自分だけ。でも、あまりにも「理想の自分」と「今の自分」のギャップが激しいと、自分の首を絞めてしまうから、どこかで、「まあ、こんなもんだ」という折り合いをつけていくのも大切だろう。

与える愛を知ることが大切とは言ったものの、恋愛や友人関係など、より密接な関係においては、互いにgiveとtakeのバランスは意識したほうがいいだろう。与えられることが当たり前になっては、人はダメになる。

みんなひとりだし、みんな弱いし、みんなそれでも愛おしいものだ。

みんな、生きようね。これだけは約束しよう。