無題

しーうーのあらまんちゅ

27

私は体が弱い。日常生活において、人の助けがいるくらいには、弱い。

私の自己嫌悪や、自分を認められない弱さ、コンプレックスは、そこから来ていたものだ、と、やっと分かってきた。

中学から保健室に通いがちになった。あの学校の、虫が這ったような模様の天井をベッドからぼうっと見つめてみた。外からは、体育の授業中、同級生たちのはしゃぐ声。私はあの中に入れない存在なのだと、ぼんやり思っていた。高校からは、体育自体をほとんど免除してもらっていた。特に水泳はだめだった。泳ぐ行為がだめというより、気温と水温の差で体がバグって、酷いときは寝込んでしまうのだった。夏は体が動かない日が多かった(これは今もたまに)。暑い中で頑張って練習をしている運動部が眩しかった。瞳が焼けて見えなくなりそうなくらい眩しかった。みんなはほどほどに勉強して、友達と他愛もない話をして、部活をして、時には恋愛もしている。けどわたしは何一つできなかった。ずっとベッドの中でひとりだった。

今の職場の課長は、特に私を気にかけてくれている。飲み会の場でおかしな絡み方をしてきて、緊張している私の心を和ませてくれる。昨日、本来はやらなくても良いと言われている業務を、たまたま休んでいる人が多かったので、少し手伝った。本当に小さな仕事ではあったが。課長のデスクは遠いのに、その様子をちゃんと見ていてくれたらしかった。終業時の挨拶をしたときに、「今日〇〇の仕事までやってくれていましたね。ありがとうございます」と言ってくれた。嬉しかった。同じ係の人たちも、みんな良い人たちばかりだ。たまーに会う程度の他部署の人たちですら、「元気?環境には慣れてきた?」と気遣ってくれる。ああ、ここにはちゃんと私を見てくれている人たちがいるんだ。私でも、少しでも役に立てる場所なんだ。そう実感できた。

自分も優しくて強い人になりたい。体は普通よりも弱いけど、これはもう仕方がない。浮き沈みの波を少しでも緩やかにするために、多少は丈夫になれるように運動してはいるが、人並み以上のタフな体になることは難しいだろう。でも良いんだ。心だけでも優しくて強い人間でありたいと思う。

ひとを優しく包み込めるくらい、強い人間に。

ヘルプマークを公共の場で一人のときは付けるようにしている。特に電車などの交通機関や、都会の雑踏の中。ある意味では、自分の弱みを不特定多数に曝け出す行為ではある。「ヘルプマークをつけた障害者」に、心ない偏見を持つ人たちもいるだろう。でも、持病と向き合いながら10年以上、一生懸命生きているんだ、これでも。私にとってはその証でもある。だからヘルプマークを付ける。万一体調が悪くなったとき、助けてください、と周囲に意思表示することは、昔の私にはできなかった、勇気のある行為なんだ。その勇気を出せるくらいには、私は強くなった。

 

今日は年次休暇をとった。

私は今日、27歳になった。

 

ゆるい眠気の中 地元の温泉旅館にて

もしもし、ベイビー

何も無いところにぽつんと現れるものが好き。特に、人工物。県道や国道、山道や田舎道に突然現れる電話ボックスが代表格かな。わたしが小学生くらいまでは、公衆電話が街中にそれなりにあった気がする。小学校の下校時間、親に迎えに来てもらうために携帯で連絡している子はごくわずか(携帯そのもの禁止だったかな?もうわすれた)で、だいたいの子は校内にある公衆電話か、学校近辺にある電話ボックスを使っていた。電話ボックスは近所にいくつかあったけど、もうほとんど無くなってしまった。近所に知っている限りで唯一残っている電話ボックスは、今は使われているところをほとんど見ない。でも残っている。

スマホ・携帯が無かった頃は、いちど外に出れば家族すらも公衆電話でしか繋がることができなかったのかあ、と思うと、今はすごい時代だなあと思う。ポケベル?とかもあったらしいけど、あれは補助的なものだろうし。あんまり知らないけど。

それよりも昔は、駅に伝言板があって、それにメッセージを書いて待ち合わせをしてたんでしょう。すごいよね。すれ違って出会えないこともいっぱいあっただろうな。

昔の人は今の私たちよりもずっと「繋がってなかった」わけだけど、寂しくなかったのかな?

だからこそ、何も無いところにぽつんと存在する電話ボックスを見ると、ここがこんな静かな場所での人と人の繋がりの拠点だったんだなって、色々胸がいっぱいになる。たぶん今もたまには使われるのだろう。

 

3月からまた働き始めた。鬱病は治っているわけではないので、今度の職場では色々配慮はしてもらっている。心のバランスを崩してから、マルチタスク状態になると脳が混乱してパンクするようになってしまったため、電話対応等はしなくていいことになっている。年度末で忙しい時期なので、ちょっと申し訳ない気持ちにもなる。でも、できることから一つずつこなしていって、感謝してもらえたときはとても嬉しい。

わたしがわたし自身を認められるようになるための第一歩だと思う。

自分自身を抱きしめてあげられるようになるための。

 

縁切りと縁結び

去年の年末、一人で関西に旅行に行った際、最終日に京都の縁切り神社へ向かった。去年はあまりにも大変な1年だった。しかし同時に、自分にとって本当に大切なものを見つけるために、ひたすらもがいた1年でもあった。

わたしが決別したかったのは、あらゆる己のネガティブな感情。それと、(本人に悪気はなくても)わたしを「負」の状態へ引っ張ろうとする人たち。縁切り神社は、同時に縁結びの神社でもある。わたしを本当に大切にしてくれる、「陽」の人たちとの縁が更に更に深まるように、同時にお願いしようと思った。

境内には長蛇の列がある。初めは、お守りを買う人の列かな?と思った。違った。これから参拝する人の列だった。うーん。きょうはあまり時間がない。これから嵐山にも行きたいのよ。悩んで、神様には心のなかでご挨拶だけすることにして、縁切り&縁結びのペアのお守りを購入した。カップル用の縁結びペアのお守りも買った。鳥居を出た時に、お社に向かって振り返り、お願い事を胸の中で唱えて、宜しくお願いいたしますと二拍一礼した。正式な参拝方法ではないけど、心はかなり晴れた。

いま、本当にいろんなことが順調に進んでいる。関わる人も選ぶようにしたので、心に余計な負担を負うことが減ってきた。「頑張ったって、分かり合えない人もいる」ということを知った。去年はそれが収穫だった。

疲れたら病む前にちゃんと休む。彼氏に会えないときだって、自分自身のやりたいことをやって生活を充実させる。完璧じゃなくたって、わたしという人間を、わたし自身が愛してあげる。そういう健康的な考え方が少しずつできるようになっている。

 

胸を張って、わたしはわたしが大好きだ、と言える日まで。

私は天使になって飛んでいる、何かから逃げている。熊たちが蠢く深い森の中に隠れようと急降下したとき、電線にぶつかって、そのまま死んだ。

 

髪と鞄と財布と靴には、自分にできる範囲でお金をかけること。

 

あなたを陰で嗤う人にだけは抱かれるな。

 

ダンボは大人になっても空を飛べるのだろうか。

 

吉原の遊女として働いていた。山の手住まいの、資産家の息子である書生に見初められた。書生はまだ世間を知らなかった。お酌をする際、そっと体を寄せると、「僕が身請けしてやるよ。君を自由の身にしてやる」と耳元で囁くのだった。覚えたばかりの酒の臭いのする息が、鼻と心にこびりついた。あくる朝、私はひとりで郭から足抜けし、隅田川に身を投げた。

おじいちゃん

 一昨日、同居してるおじいちゃんが家の中で転倒してしまい、額が切れて出血が激しかったため、車で病院に連れて行った。おじいちゃんを助手席に乗せて、シートベルトを締めてあげて、ドアを閉めてあげて、運転しているときに、ふと思った。20年前は、立場が逆だったんだね。

 幼稚園にもあまり馴染めなかった幼い私は、共働きの両親に代わって母方の祖父母に育ててもらっていた。おばあちゃんは家の家事全般をやってくれていた。おじいちゃんにはとても可愛がってもらって、よく車で田舎道をドライブに連れて行ってもらった。郊外の静かな自然公園などで、おじいちゃんは家から持ち出したキャンバスに風景画を描いた。わたしはその周りをただ遊んでいた。芸術や文学に関心の深かったおじいちゃんは、わたしを棟方志功の展示に連れて行ってくれたり、金子みすゞ宮沢賢治の絵本を買ってくれたりした。おかげでわたしはお絵描きが大好きになって、金子みすゞの詩を暗唱できる子どもになった。初めての自転車を買ってくれたのもおじいちゃんだった。

 若いころから双極性障害を患っていたおじいちゃんは、やがて鬱期に入ってしまい、何年も寝たきりになった。絵も描かなくなって、描いていた作品はみんな処分してしまった。だからおじいちゃんの作品は、思い出の中にだけ残っている。寝たきりのまま布団の中で何かぼそぼそと呟いていたり、家の前を車が通りがかると「うるせえ!!!」と怒鳴っているおじいちゃんを見ると、もうどう接していいかわからなかった。わたしの関心は、おじいちゃんが教えてくれた芸術や文学よりも、流行っている少女漫画などに移っていった。

 東日本大震災があったあたりから、おじいちゃんは何か「生きる力」を取り戻したのか、また少しずつ活発に動くようになった。足腰の弱ってきたおばあちゃんと、国内や台湾などに何度も旅行した。まあ完全なる躁状態ではあるけど、それでもわたしたち家族はおじいちゃんがまた動けるようになったのが嬉しかった。それでもたまに不安定になることはあって、激高してわたしに暴言を吐いてくることも何度かあった。病気のせいだとはわかっていたけど、やっぱり家族だし、元気な時のやさしさを知っているから、まともに傷ついた。4年前におばあちゃんが突然亡くなったとき、はじめておじいちゃんの涙を見た。たまに饒舌になって笑うけど、基本的には無口で無表情のおじいちゃんが泣いていた。調子の悪いときは暴力をふるうこともあったらしいけど、それでも、おじいちゃんはおばあちゃんを不器用なりに愛していた。そう感じた。今でもおじいちゃんは、電車とバスで一週間に一度、おばあちゃんのお墓に花を添えに行く。愛というのは不思議なものだと思う。

わたしは今、おじいちゃんが教えてくれた芸術、文学に、すごくすごく助けられている。

 不治の心の病を抱えながら、93歳になる年まで、死なずに生きてくれているおじいちゃん。どれだけ苦しかっただろう。わたしはおじいちゃんを誇りに思うよ。おじいちゃんなら、まだまだ生きられる。わたしも生きていくよ。

 もっと長生きしていこう。

風船

 

何歳だったのかな。子どもの頃の話。

近所にスーパーマーケットが新規開店した。

そのオープニングイベントか何かで、ジュースのキャラクター「Qoo」の着ぐるみが、子どもたちに風船を配っていた。

よく晴れた、暖かい日だった。

Qooちゃんはとっても可愛かった。私が手をふると、パタパタと手を振り返してくれた。表情は着ぐるみだから変わらないけど、ずっとニコニコ微笑んでいた。

Qooちゃんから風船をひとつもらった。でも私がほんとに欲しかったのは、風船じゃなくて、ニコニコ微笑む可愛い可愛いQooちゃんそのものだった。ずっと私のそばにいて、抱きしめてほしかった。Qooちゃんを家に連れて帰ると母親に泣きついたが、当然相手にされるわけがなかった。

風船をQooちゃんそのものだと思って、自分なりに大事に持っていたつもりだった。でも、何かのはずみで持ち手から握りしめていた私の手が離れてしまった。ヘリウムガスの入った風船は、たちまち空に向かって上昇し始めた。私は火が付いたように泣きわめいた。Qooちゃんを連れて帰れなかったうえに、Qooちゃんの代わりだと自分なりに納得して持ち帰った風船まで無くしてしまった。欲しいあなたも、その代わりのものも手に入れられなかった。生まれて初めての喪失だった。

Qooちゃんの風船は、春の青空に高く高く舞い上がって、吸い込まれていった。

風船は何色だったかな。

私の中では、雲の隙間をまだあの風船は漂っているんだ。どこまでも。永遠に。